保渡田(ほとだ)古墳群

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古墳時代弥生時代に稲作が始まると、集落の規模が大きくなり、集落の中に身分格差が産まれるようになった。大きくなった集落は歴史用語で『クニ』と言い、クニのボスたちが埋葬されたのが古墳である。
 この古墳が作られた時代を「古墳時代」と言い、3世紀から7世紀にかけて350年ほど続いた。古墳は北海道・青森県・沖縄県を除く全国に分布し、未調査・未認定や破壊・消滅することもあって数は変動するが、全国総計16万基といわれている(2001年度文化庁発表)。
 日本書紀によると、この時代にヤマト王権の統一政権として確立したとされる。大和(奈良県)を本拠とした大王を首長とするヤマト王権が地域の豪族を束ね強大な勢力をもち日本国の起源となる大和国家を成立させていった時代と考えられている。
 この時代、朝鮮半島、大陸との交流も盛んで、倭が朝鮮半島で得た資源は、甲冑武器農具工具などに用いられ、大陸からは文字漢字)と仏教儒教がもたらされた。
 5世紀後半には朝鮮半島南部にも前方後円墳が見られるようになるが、日本人が造ったか日本の影響を受けて造られたものと考えられている。

保渡田古墳群:国指定史跡・保渡田古墳群は八幡(はちまん)塚、二子山、薬師塚の3基の前方後円墳の総称で、5世紀後半から6世紀初頭に造られた。墳丘長はそれぞれ102m、108m、105m(推定、現存70m)といずれも100mを超える大きさである。榛名山東南麓を治めていた豪族の墓で、発掘調査をもとに整備、復元された。盗掘にあい、副葬品はわずかしか出土していないが、埴輪・土器は「かみつけの里博物館に保存展示されている。
 榛名山の噴火による泥流で一帯は4~6mの火山灰に覆われていたため、遺構は風化せず、特に埴輪の並び方が良く残っており、埴輪の研究に重要な場所となっている。
 2020年JR東日本「大人の休日俱楽部」のTVコマーシャルに吉永小百合が出演して話題となり、来場者が10倍に膨れ上がったこともあった。

古墳に眠る王は?:榛名山の麓は水田開発に適した地形と豊かな水があった。渡来人によってもたらされた新しい技術で水路が切り開かれ、馬の飼育がおこなわれ、実り豊かな土地となった。古墳に眠る王は有力な豪族で、育てた馬をヤマトに運び、ヤマトと強いつながりを持っていたこともこの地に前方後円墳が造られた理由の一つである。
 保渡田古墳群から南東約1km付近に、上越新幹線の建設に伴い発見された日本で初めての豪族の館・三ツ寺遺跡がある。5世紀後半に隆盛を極めた王は榛名山の2度の噴火によって転居または衰退したと考えられている。

群馬の由来:紀元5世紀、榛名山南東地域一帯を車持氏(くるまもちし)と呼ばれる一族が治め、この地域を車里(くるまさと)と呼ばれていた。古来、群馬の一帯は上毛野国(かみつけのくに)と呼ばれていたが、奈良時代になると朝廷はめでたい字で二文字に地名を改めるよう命令し、上毛野(かみつけの)は上野(こうずけ)、車は群馬(読みは(くるま)のまま)になった。 そして明治4年に上野国は古代から一番大きい群馬の名を取り、群馬県となった。

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(写真左から)保渡田古墳群の空撮、八幡塚古墳、八幡塚古墳周囲に再現した埴輪群

[参考文献]
・Wikipedia:「古墳」、「古墳時代」、「保渡田古墳群」
・わくわく博物館体験ブック「古墳ハカセになろう!」
・高校日本史「古墳時代完全まとめ」
・たびよみ「古墳大国・群馬へ歴史トリップ」
・高崎市HP 「上毛野はにわの里公園」

(吉田 勝 記)