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世話人:加藤正俊
    吉田 勝

「徳川光圀」

徳川家康の孫:
 徳川光圀は水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男、徳川幕府初代将軍・徳川家康の孫にあたる。頼房は家康の11男で家康62歳のときの子である。
 徳川光圀は、「江戸初期の三名君」の一人として会津藩主・保科正之、岡山藩主・池田光政(いけだみつまさ)と並んで称された人物です。
不良少年だった光圀
 しかし、若い頃の光圀はかなり素行の悪い不良少年。派手な格好をし、女物の着物を羽織り、襦袢をちらつかせて、カブキ者や男伊達と呼ばれる荒々しい振る舞いの男たちと群れ、町を闊歩する青年・・・それが若き日の徳川光圀でした。恐喝、暴行するかと思えば、元服もしない頃から吉原などの遊郭通いも。色白で、背が高く、美男であり、運動神経もよく、腕力も抜群、剛毅な性格の若者だったので、仲間の青年たちの間でも人気抜群。それが水戸藩主の息子ですから手に負えません。おそばの家臣たちの注意も聞かず、好き放題し、刀の試し斬りのために浅草寺境内で訳もなく人を殺めるまでしたということです。
光圀の出自
光圀の母は奥付きの老女養心院の娘で正式な側室ではなく、同母の兄・松平頼重を懐妊したが、堕胎を命じられた。兄・頼重は密かに江戸麹町の別荘で生まれ、育てられた。光圀も同様に堕胎を命じられ、水戸の家臣である三木邸で生まれ育てられます。その後4歳で水戸城に入城し、病弱だった兄・頼重を差し置いて世子となります。こうした複雑な出自と「長幼の序(年長者を敬う儒教の教え)」に反する状況が、彼の心に大きな葛藤を生み、若き日の非行の一因だったとも考えられる 。
『史記』との出会い
しかしそんな光圀も、18歳のときに司馬遷の『史記』の『伯夷伝』を読んで兄弟の家督譲り合いの話にひどく感銘を受けてからは、それまでの態度を改め、学問に没頭します。

 水戸藩主となってからは、殉死の禁止、笠原水道の開設、貧民の救済と産業の振興などの善政を行い、自我の強い性格を藩政に活かして、さまざまなことにチャレンジしました。巨大船・快風丸での蝦夷地探検。そして司馬遷の『史記』にならって、江戸の小石川藩邸に「彰考館」と呼ばれる史局を置いて、全国から優れた学者を招き、本格的な日本の通史『大日本史』の編纂作業を行います。光圀が水戸藩挙げての『大日本史』の編纂を決心したのは、1657年に起きた明暦の大火で貴重な歴史史料が多く焼亡したことにショックを受けたことに加え、兄弟愛が書かれたあの歴史書『史記』から受けた影響が大きかったのです。また光圀は儒学を奨励し、「水戸学」の基礎を築きました。
兄・頼重への思い
 一方、兄の松平頼重は、讃岐高松藩松平家の藩主となりました。光圀は水戸家の長男に生まれながら、本家の家督を継げなかった兄の辛い立場を思います。そして、兄への償いとして、「兄さんの子を養子に貰い、水戸家の家督を兄さんの血筋に返す」として、兄・頼重の子供である綱條(つなえだ)を養子として迎え、三代目水戸藩主としました。

 その合理的かつ剛毅な性格で幕政に関しても発言力があり、五代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」にも猛反発。将軍に逆らうことの出来る数少ない人物の一人でした。
 ただ、藩を挙げての日本史編纂事業は、評価される一方、藩財政を圧迫し領民への負担をかける問題になったといいます。
 藩主を退いたあとの光圀は、西山(現在の常陸太田市)にて隠居生活を送り、晩年は、侍塚古墳の発掘調査、那須国造(なすくにのみやっこ)碑などの文化財保護に尽力しています。
 1701(元禄13)年に満72歳で他界。死因は胃癌や食道癌と推定されている。
「水戸黄門」の由来
 中納言の唐名から、水戸の中納言ということから「水戸黄門」の名で現在でもテレビドラマなどをとおして親しまれています。実は「水戸黄門」は光圀一人だけではありませんでした。水戸藩の歴代藩主の中で、光圀を含めて7人が中納言の位に就いています。
「助さん」と「格さん」
 『水戸黄門』の物語でおなじみの「助さん」と「格さん」にも、実在のモデルがいた。助さんのモデルは佐々宗淳(さっさむねきよ)、格さんのモデルは安積澹泊(あさかたんぱく)という、いずれも彰考館の中心的な学者だった 。しかし、彼らは物語のような腕利きの武芸者ではなく、一流の学者であった。彼らが諸国を旅したのは、悪人を懲らしめるためではなく、『大日 本史』の編纂に必要な古い記録や資料を収集するためだったのだ 。

 光圀自身は領内の視察には出たものの、領内から出たという記録はない。
 本で初めてラーメンやチーズを食べた?旺盛な好奇心:
 光圀は未知の文化に対しても非常に強い好奇心を持っていた。その象徴が、日本で初めてラーメンを食べた人物という逸話だ 。彼が師として招いた中国の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)が光圀に振る舞った中国式の麺料理が、日本におけるラーメンの元祖とされる。朱舜水から牛乳を加工して作る「白牛酪(はくぎゅうらく)」というチーズのような乳製品や、餃子の作り方も教わったと言われている 。
上水道整備
 光圀の代表的な功績の一つが、1663年に完成させた「笠原水道」だ 。これは、城下町の低地で飲み水に苦しんでいた人々のために、大規模な上水道を整備する事業だった。当時の技術で、わずか1年半という短期間で完成させたこの水道は、明治時代まで長く水戸の人々の暮らしを支えた 。
殉死の禁止
 社会の慣習にもメスを入れた。藩主となった1661年、彼は家臣が主君の死を追って殉死する「殉死」を厳しく禁じた 。父・頼房が亡くなった際には、殉死しようとする家臣たちの家を自ら訪ねて説得し、水戸藩からは一人の殉死者も出さなかった 。これは、有能な人材を失うことは藩にとって大きな損失であるという、人命を尊重する合理的な考えに基づいていた 。
[参考資料]
・歴史上の人物.com「徳川光圀」
・歴史人物学習館「徳川光圀」
・日本史トリビア「徳川光圀とは?『水戸黄門』のモデルの素顔」
・Wikipedia「徳川光圀」
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