旅行会タイトル226x53

 

 

世話人:加藤正俊
    吉田 勝

「徳川光圀『大日本史』」

光圀が生涯を捧げた一大事業『大日史』の編纂
 徳川光圀の最大の功績は、日本の歴史書『大日本史』の編纂事業を始めたことだ。1657年に着手されたこの事業は、光圀の死後も続けられ、最終的に完成したのは1906年(明治39年)、実に250年もの歳月を要した壮大なプロジェクトだった 。
 この歴史書は、初代・神武天皇から南北朝時代を統一した後小松天皇までの歴史を、中国の『史記』に倣った「紀伝体」という形式で記述している 。その根底には、「大義名分論」という儒教の思想があった 。これは、歴史上の出来事や人物を道徳的な基準で評価し、君主と家臣のあるべき姿を明らかにしようとする考え方だ 。
 『大日本史』は、その内容において、当時の常識を覆す三つの大きな特徴(三大特筆)で知られている 。
 1.神功皇后を天皇ではなく、天皇の后として扱ったこと。
 2.それまで天皇と認められていなかった大友皇子を、弘文天皇として正式な天皇としたこと。
 3.そして最も重要なのが、皇室が二つに分かれて争った南北朝時代において、南朝こそが正統な皇室であると結論付けたこと。
尊王攘夷運動に繋がる:
 この事業は、単なる歴史書の編纂にとどまらなかった。光圀は江戸の藩邸に「彰考館」という研究機関を設立し、全国から優れた学者たちを招聘した 。彰考館は、いわば一大シンクタンクとなり、その研究活動を通じて「水戸学」という独自の学問と思想体系が形成されていった 。
 そして歴史の皮肉とも言うべきことに、この水戸学が、幕末の日本に大きな影響を与えることになる。特に、天皇の絶対的な正統性を強調する「尊王論」は、徳川幕府を倒して天皇中心の新しい国を作ろうとする思想(尊王攘夷運動)の強力な理論的支柱となった 。徳川家の一員である光圀が始めた学問が、200年の時を経て、自らの一族が築いた幕府を終わらせる原動力の一つになったのだ。
ナショナル・アカデミーとしての「彰考館」
 1657年(明暦3)2月、徳川光圀は明暦の大火の翌月という極めて早い段階で、江戸の水戸藩中屋敷に史局を設置し、史書の編纂を開始した。当初の員数はわずか4名、彰考館として独立した1672年(寛文12)には24名に至り、編纂事業はいよいよ本格化した。
 各地から招聘される学者は増え続け、元禄期には50人余に及ぶ盛況を呈した。当時の館員の出身地を見ると、藩の招きに応じて諸国から参集した学者が主流であり、とりわけ京都出身の学者が多数を占め、学派も多彩を極めました。ここには、特定の学派に固執せず幅広い知見を集めようとした光圀の強い意志が窺える。この多様性を受け入れる学風こそが、後の水戸学の基礎となった。
 さらに特筆すべきは、彰考館員がすべて「藩士」として採用された点である。彼らは一般の武士と同様に役職を与えられ、その職責に応じた待遇を受けて史館員としての務めを果たした。彰考館員は禄も高く、これが藩財政を圧迫していきます。更に、この「学者兼武士」という特異な立場は、後の彰考館員が単なる編纂者を超えて「政治化」していく大きな要因ともなった。
 光圀は,彰考館を単なる「歴史編纂所」に留まらず,当時の日本における「総合研究機関(ナショナル・アカデミー)」へと発展させた。さながら現代でいえば東京大学と国立公文書館と国立科学博物館を合わせたような存在でした。
 彰考館では史書の編纂のほか,一か月に6日講座を開いて,館員である学者に,経書を講義させ,すべての藩士に聴講させるようにした。これは後世まで長く続けられ,弘道館が開設される以前は,水戸藩士子弟の教育に重要な役割を果たした。
 彰考館の陣容が次第に整備されるについて,水戸藩の学問は「大日本史」とは別個の編纂書が多く生まれました。「釈萬葉集」(万葉集の注釈書),「扶桑拾葉集」(和文の集成),「本朝文集」(漢文の集成),「神道集成」「礼儀類典」,「草露貫珠」,「花押藪」等があげられる。中でも特に光圀が力を入れたのが「礼儀類典」でした。本書は,朝廷・公家の儀式典礼の全般史料を分類わけした総合的な典録です。水戸城内に「礼儀類典」の編纂所として彰考館別館が設けられ,安藤抱琴を総裁に70人程の職員が従事した。1688年(貞享5)には,草稿の一部に凡例と書目を添えて編纂の趣旨を朝廷に上奏し,「礼儀類典」の名を,後西上皇より賜り,朝廷からも書目に洩れた古記録を貸与された。この書がその後の水戸藩(水戸徳川家)と朝廷との関係を深くしていく契機ともなったのです。
 光圀の文教振興策の対象は,国文学,歴史学,地理,神道,古文書,考古学,書誌と多岐にわたったが,医学,薬学,天文学,和算など自然科学の分野まで及んた。とりわけ,光圀は,薬学の分野には深い関心と造詣があり,屋敷にも薬室を設けて,各種の薬を調剤させたほどだった。光圀は、西山荘への隠居後の1693年(元禄6)、『救民妙薬』を編纂したが、その目的は、満足に薬を手に入れられない領民の医療に役立てるためだった。身近な薬草で調剤できる処方397種を紹介し、安価で配布した。
[参考文献]
・Wikipedia「大日本史」、「徳川光圀」
・日本史トリビア「徳川光圀とは?『水戸黄門』のモデルの素顔」
・茨城県立歴史館「徳川光圀」
お問い合わせはこちら