2026年旅行会の紹介 ➃岡倉天心
投稿日 : 2026年2月9日
最終更新日時 : 2026年3月13日
作成者 : higashimurayamaw
カテゴリー : お知らせ

世話人:加藤正俊
吉田 勝
「岡倉天心」
岡倉天心と五浦:
五浦温泉を語るうえで欠かせないのが、明治時代の思想家・美術評論家である岡倉天心(1863-1913)の存在です。「茶の本」の著者としても知られる天心は、東京美術学校(現・東京藝術大学)の創設に関わった日本近代美術の父とも呼ばれる人物。
天心は1903年(明治36年)、この五浦の地に魅せられ、広大な敷地に住居を構えました。荒々しい波が打ち寄せる断崖の上に建てた六角堂(観瀾亭)で、天心は太平洋を眺めながら思索にふけりました。
1906年には、天心が主宰する日本美術院の拠点を東京から五浦へ移転。横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山といった近代日本画の巨匠たちがこの地に集い、制作活動に励みました。五浦の雄大な自然は、彼らの芸術に大きなインスピレーションを与えたに違いありません。
現在、天心の旧邸宅や六角堂は茨城大学五浦美術文化研究所として整備され、一般公開されています。2011年の東日本大震災で六角堂は津波により流失しましたが、翌2012年に再建。今も変わらず太平洋を見守り続けています。
[写真](下) ボストン美術館での岡倉天心、(下)五浦の日本美術院研究所で制作に励む作家たち 手前から木村武山、菱田春草、横山大観、下村観山、

岡倉天心の来歴:
1863(文久2)年、福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として生まれました。幕末、藩命で武士の身分を捨て福井藩が開いた横浜の商館「石川屋」の貿易商となった覚右衛門のもとで、幼少より英語塾で英語を学び、お寺で漢籍を学ぶなど後年の国際的な活躍の素地が磨かれていきました。
官立東京外国語学校(現東京外国語大学)を経て、東京開成所(後の官立東京開成学校、現東京大学)で政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことから同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝いました。
1878(明治11)年、16歳の時、大岡忠相の末裔でもある13歳の基子と結婚。
1880(明治13)年、東京大学文学部卒業、文部省に勤務。文部省在籍中に専修学校(現専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し、学生たちに大きな影響を与えました。
岡倉天心の業績:
明治維新、新政府の神仏分離、廃仏毀釈が盛んとなり、仏像などの美術品が破壊され、海外に流出するのを憂い、古美術の保護に力を注ぎました。1884(明治17)年、文部省の命により、フェノロサと共に京阪地方の古社寺歴訪中、法隆寺夢殿を開扉、秘仏の救世(くぜ)観音菩薩像の調査を行った時の驚きと感動を「一生の最快事」と語り、報告書は文化財保護について最も早く適切な提案をしたと今でも高く評価されています。
フェノロサと欧米視察旅行の後、1889(明治22)に東京美術学校開校、翌年27歳の若さで同校の初代校長となります(浜尾新は校長事務取扱に留まり、事実上の初代校長は岡倉天心。副校長はフェノロサ)。同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られています。
急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになります。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。
横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指しました。その創立展には、大観「屈原(くつげん)」、観山「闍維(じゃい)」、春草「武蔵野(むさしの)」などの話題作が出品されました。
天心の指導を受けた大観や春草ら日本美術院の作家達は、大胆な没線(もっせん)描法を推し進めましたが、美術院の経営は行き詰まりをみせ、天心の目は次第に海外へと向けられていきます。天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らは、ニューヨークをはじめ各地で展覧会を開き好評を博しまし た。
一方、日本美術院は、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」などと激しい非難を浴び、次第に世間には受け入れられなくなり、天心や横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、同39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図りました。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転しました。天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せました。
生活上の苦境に耐えながらも大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。
岡倉天心の逸話:
・1903(明治36)年横山大観、菱田春草らと渡米した際、羽織・袴で一行が街中を闊歩していると、一人の若者から冷やかし半分の声を掛けられた。「Are you Chinese, or Japanese, or Javanese(ジャワ人)?」 岡倉が陽気な英語で言い返した。「Are you a Yankee, or a Donkey or a Monkey?」
・岡倉は1892年5月東京専門学校(現早稲田大学)に特別課外講師(東洋美術史)として参加しており、大隈重信と知り合い、日本美術院の後援者になってもらった。後の早稲田の美術研究も天心の影響が大きいと言われる。
[参考資料]
・茨城県天心記念五浦美術館/岡倉天心
・Wikipedia「岡倉天心」