講演「井伊直虎の実像とその動向」報告

講演に先だって先生と打合せをさせて頂きました。その時、

 先生曰く「直虎は男である」

と言い、それを実証する直虎(次郎法師)自身の関係史料も8点ほどしかなく、しかも永禄8年~同11年 (1565~68)に集中しているとのことです。如何に実証するのか講演が楽しみとなりました。 題記第99回市民講座は、10月14日(土)15:30から、サンパルネ・コンベンションホ-ル(東村山駅西口ワンズタワー2階)で行われました。講演内容は、2017年度のNHK大河ドアマ「おんな城主直虎」に因んで行いました。来場者は、103名(当会会員35名、一般68名)(下写真)であり、今年度3回は全て100名を超える盛況振りでした。 講座は、大内会長の挨拶(下記1枚目の写真)から始まり、黒田さんによる講師紹介と先生に勝るとも劣らない解説へ(下記2枚目の写真)と続きました。7大内黒田 講師は、早稲田大学エクステンションセンタ八丁堀校講師柴裕之先生です。柴先生は、東洋大学文学部非常勤講師、千葉県文書館県史・古文書課嘱託をも務め、特に日本中近世移行期(戦国・織田豊臣期)政治社会史に精通しております。  報告は、先生の資料と大意として同等内容を示す下記図面、先生の話から作成した家系図、および「雑秘説写記」に関するウエブから資料を使用しています。また、報告は、簡略化していますので多少の正確さの不備はご容赦願います。 最初に、当時の井伊家の立場および時代背景を簡単に説明します。井伊家は、下記の領土図の通り所定の地域を支配する今川、織田などといった戦国大名(国家)の下で、8、10、12ぐらいに分れた部分(国)を支配する国衆と呼ばれ、直臣の譜代家臣とは異なり自立性の強い集団でした。そのため、井伊家としては、紛争に解決などの存続保護を目的に如何に強い国家に属するかが大きな課題となっていました。 その結果、三河と国境に近い遠江の井伊谷(いいのや)を支配する井伊家は、尾張桶狭間の戦いで敗れ弱体化した今川から離反し、徳川方に就くことになりました。そして、井伊家は、直虎の後継者であり、徳川四天呼ばれた直政から桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼と繋がる名家となりました。 講演内容は多岐に亘っておりますが、ここでは報告の頭書上げた、先生曰く「直虎は男である」、そして先生が直虎を誰と結論付けているのかを報告します。 NHK大河ドラマでは、直虎を女として採り上げています。先生とNHKとの違いは、検討の素材となる同時代の史料が少ないこと、および準拠する資料の違いに基づくものであると考えます。実際に直虎(次郎法師)自身の関係史料も8点ほどしかなく、しかも永禄8年~同11年 (1565~68)に集中してみられます。NHKでは、井伊家の菩提樹の龍潭寺で作成された『井伊家伝記』以降の系譜に基づいて、「直虎(次郎法師)は女性である」と判断し、色々脚本を加えドラマ化しています。 一方、先生は、前記の少ない資料およびその他の事例等を参考にして、②から⑤の四点から「直虎は男性である」と推測していたが、①に示す資料が見つかり、確信に至ったのではないかと思われます。すなわち、先生は、上図右側の井伊家系図に見られるように、井伊直虎は関口氏経の男子で、次郎法師はその幼名であり、女性として知られた人物(井伊直盛の娘、妙雲院殿月船祐円大姉)はその妻にあたるとの結論に至っています。

  1. 男性である可能性を示す新資料「雑秘説写記」発見(2017年1月)

井伊美術館(京都市東山区)は14日、井伊家が所有する古文書に「井伊直虎」を男子とする記述が見つかったと発表しました。下図の資料は、彦根藩(井伊家)の家老(左馬助の孫)が寛永17(1640)年に聞き書きしもので、「(領地は)新野殿のおいの井伊次郎殿に与えられた」「関口越後守氏経(うじつね)の子が井伊次郎」とある事が発見されました。ただ、ここには「井伊次郎(直虎)」が井伊家の当主だったかどうかなどは触れられていません。同美術館は「もしかしたら直虎は男だったかもしれない。今後、さらに研究が進んでほしい」としています。                                  

  1. 井伊家当主としての継承男子の不在へ、「遠州忩劇」への対応 先の『井伊家伝記』によると、直盛の娘は直親との婚姻がならず出家し、大叔父に当たる龍潭寺住持の南渓より井伊宗家出身から「次郎法師」と名付けられたという。 しかし 先生の考えは下記の通りでした。 (ⅰ)父である直盛と直親は従兄弟で、両者の間の年の差は10歳である。その娘は幼少すぎて、婚姻を判断ができる年頃ではない。 (ⅱ)当時女性は家内部の財産や発言権は掌握しても、継承男子が不在の場合、当主に婿を迎えている。当時の実態を踏まえると、『井伊家伝記』の記載は異例である。娘とされた人物はその妻である(ⅲ)次郎法師は法名ではあるまい。織田信長の幼名は「吉法師」など「~法師」という幼名がみられる。井伊家を継ぐこととなった幼年の人物が、「次郎法師」を名乗ったとしても不自然ではない。
  2. 「鈴木家譜」(東京大学史料編纂所謄写本」に男子と思われる記述。

    鈴木家譜』は、井伊谷三人衆の一人鈴木家の家譜である。注目したいのは、直盛死後に今川一族の関口氏経(駿河今川氏の対井伊氏担当)から子を貰い井伊家を継がせようとした動きがみられる。

  3. 徳政令における対応

    今川氏真の要請により徳政令は実施されました。そして、井伊直虎・関口氏経連署状(「蜂前神社文書」)の発給となりました。同文書は唯一の「直虎」署名が確認されるものであり、また関口氏経はその後見役にあったことを示すものです。ここからも、氏経は直虎と親族=父親にであった可能性が高いと判断されます。

  4. 『河手家譜』(井伊美術館所蔵)の記述

    「直虎」は駿河国へ逃れる途中に討死し、祐椿尼・妙雲院殿月船祐円大姉(直虎の妻)は、井伊谷龍潭寺内の松岳院(祐椿尼の菩提所)へ避難したと伝わっています。

なお、先生に拠る家系図において、佐名は関口親永と結婚したことを示しています。先生はそのことを明言しておりませんが、先生は佐名を通して関口家と親戚であると言いました。そこで、佐名と結婚したのは戦国未来著「おんな城主直虎人物事典」等によると今川家家臣である親永(氏純)であるということです。また、親永と氏経は直系でない可能性が高いとのことです。 最後に当会員の井伊さんの家系について報告します。下記の家系図は、NHK大河ドラマにおける井伊家系図と、伊井さんの伊井家系図を示したものです。伊井純太さんは、三浦春馬が演じた直親の隠し子である直胤の子孫です。 すなわち、直親は幼少時今川から命を狙われ信州へ隠れ、信州での隠し子として直胤を得ました。その直胤も北陸の糸魚川(上杉領)に逃げ、3人の男子をもうけました。純太氏は直胤の長男直方の子孫であります。長男直方は商人に成り、伊井家の名前を捨て屋号・新兵衛を名乗りました。明治になってから商人にも苗字が許され、長男直方の子孫は伊井を名乗ったそうです。一方直胤の三男は菩提樹寺である正覚寺の僧侶となり伊井家を名乗り、子孫も伊井家を名乗っていた由です。その為 明治になり長男直方の子孫は正覚寺の伊井家に遠慮して苗字の順序を逆にした由です。また、長男直方の子孫には大正時代に日本最古の共同墓地を建立した健治もいる由です。以上。 

(写真:野中 昭夫  記:富澤 文雄)