パラオの地図演題:パラオ共和国 ぺリリュー島の慰霊の旅
講師:木野友博氏 当会会員
日時:2021年4月10日(土)14:00~17:00

西太平洋上に位置するパラオ共和国は直行便で4時間の珊瑚礁に囲まれた美しい島嶼国家です。19世紀後半以降、パラオはスペインとドイツに相次いで植民地とされ、島民たちは搾取と愚民化政策の対象とされました。ドイツが敗戦した第一次世界大戦後の大正9年(1920)パラオは日本の委任統治領となりました。パラオ人達は今度は日本人に支配されまた虐殺されると怯えていました。しかし日本は病院、道路、水道、電気などインフラ整備や産業振興、学校制度の導入など、様々な政策を実行、その結果、島民の生活レベルや識字率は大きく向上しました。初めは日本兵に怯えていた島民はやがて日本兵と仲良くなり、日本の歌を一緒に歌ったりしました。

しかしサイパン島を占領した米軍が次に目標としたのはパラオ諸島でした。フィリピン方面への攻撃拠点を求める米軍にとって、パラオ南端のペリリュー島にある大規模な飛行場は格好の存在でした。昭和19年(1944年)9月米海兵隊を基幹とする4万人がぺリリュー島に上陸、 守備隊1万人と激突しました。4日で占領できると豪語していた米海兵隊は守備隊の粘り強い抵抗にあい多大な損害を出し撤退、戦闘は11月まで続き、司令部は玉砕したものの、残存兵士は昭和20年の終戦以降も敗戦を信じず昭和22年まで洞窟にこもり援軍を待ちました。

2015年4月天皇皇后両陛下(現上皇上皇后両陛下)は日本の「西太平洋戦没者の碑」と「米陸軍第 81 歩兵師団慰霊碑」にも供花し犠牲者を追悼されました。

歴史は勝者により書かれます。敗者だった日本軍将兵と島民との秘話を講師には紹介して頂きました。米軍との戦いを目前に島民達は相談し日本軍と戦う事を決意します。そして島民代表が守備隊長・中川州男大佐にその事を申出ます。中川はそれを聞くなり激高し「我ら帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と叫びました。日本人は仲間だと思っていた島民達は裏切られた思いでみな悔し涙を流しながらがっかりしました。数日後、戦闘を前に避難のするため船に乗って島を離れる時がきましたが、日本兵は誰一人見送りに来ませんでした。「やはり日本人は我々を見下していたのか・・・」島民達は再び肩を落とし、悔しさにくれて船を出発させました。船が島を離れた瞬間日本兵全員が浜に走り寄り、共に歌った日本の歌を歌いながら手を振り彼らを見送りました。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、島民達は悟った。あの隊長の言葉は自分達を救うためのものだったのだと・・・。これは現地小学校の教科書に掲載されている由です。

 

第109回市民雑学講座の報告_284号(5月号)_画像_ZOOM画面
また講師によると、パラオ共和国は世界一の親日国で、パラオの言葉の20%は日本語由来、またパラオのある地域では日本語が公用語の由です。

会長の挨拶と講師紹介10分、講師の選曲した軽やかなカントリーミュージックと共に、ぺリリューの戦跡とパラオの自然紹介のDVD放映40分、講話質疑応答1時間10分、休憩10分、更に講話質疑応答50分、合計3時間でした。
参加会員家族24名(敬称略):

青山、市川(暢)、大内、岡田、加藤、上町、木野、紅松(容)、黒田夫妻、小菅、
小森、崎山、髙橋(正)、滝川(桜)、滝来(京)、滝来(洋)、當間、富澤、町田(和)、
町田(光)、森本、山本(岩)、吉田勝

(黒田 祐司 記、大内・上町 写真)