第110回市民雑学講座 講師写真

講師:大井芳文(東村山郷土研究会会長)
日時:9 月11 日(土)14:00~16:00 会場:ZOOM と多摩湖ふれあいセンター

 コロナ禍の中ZOOM 講演会を行った。ZOOM をされない方からも希望があり検討した結果、ZOOM と対面を融合したハイブリッド方式による初めての開催となった。幸い多摩湖ふれあいセンターが16 名迄という人数制限とマスク着用等の感染対策で利用できた。ZOOMでの自宅参加会員25 名、会場参加者は講師を含め10 名の合計35 名だった。14 時黒田副会長の司会により、6 月12 日開催予定だったが緊急事態宣言のため延期され、今回無事開催できた等の経過が伝えられ開会宣言。山本会長挨拶、滝川桜子の講師紹介に続き,大井先生の講演が開始された。テーマ1 の何十万年もの狭山丘陵の成り立ちから紐解かれて、テーマ6 迄、それぞれエキス満載の講演だった。

1.武蔵野台地に浮かぶ島、狭山丘陵・八国山(地形と地質)
 東村山市は北に狭山丘陵とその南に広がる武蔵野台地から構成されている。武蔵野台地は今から50 万年前ごろ古い多摩川(古多摩川という)が多摩山地から削り運んできた砂礫によって作られた。武蔵野台地は青梅を扇頂とした扇状地であり、青梅(標高180m)から緩やかに傾斜して北の入間川、北東の荒川、南の多摩川にかこまれた日本最大級の台地がある。箱根や富士山等の関東周辺の山が活発に活動して火山灰の関東ローム層に覆われている。狭山丘陵はかっては多摩川より南にある多摩丘陵と繋がっていたといわれるが、関東一帯の地殻変動による土地の隆起や気候変動が起こる中、武蔵野台地を縦横に流れていた古多摩川が移動しながら大地を削り取っていった。狭山丘陵は古多摩川が長い時間をかけて大地を削り、周囲を削り取られて武蔵野台地に島のように浮かぶ存在になった。
 狭山丘陵は東京都(東村山市、東大和市、武蔵村山市、瑞穂町)と埼玉県境にある。東西11 ㎞、南北4km、標高は最も高いところで194m であり八国山は狭山丘陵の東端に位置している。丘陵は温暖な気候と水に恵まれていたので、丘陵の谷や川を利用したところに石器時代より人々は、住み始めて生活してきた。また北川の源流と柳瀬川の源流を堰き止めて、大正時代から昭和の初めにかけてまで、東京都民の生命を守る東京の水瓶となっている村山・山口貯水池が築かれた。

2.三つの国の重要文化財がある八国山
①「下宅部遺跡」
 3500 年前(縄文時代)の漆文化、2021 年国の重要文化財に! 下宅部遺跡は2020 年3 月に国の重要文化財に答申され、2021 年6 月東村山で3 つ目の国重文財になる。遺跡は、多摩湖町都営住宅建て替えの時1995 年に発見された。縄文時代(後期から晩期)・古墳時代・奈良時代・平安時代の複合湿地遺跡であり、様々な有機質遺物だった。遺跡の重要性の高いことから下宅部調査団を結成し、その後6 年間にわたる発掘調査が実施された。水に守られた湿地遺跡で縄文時代の遺構とともに当時の生活や古環境を復元することができるものが出土した。中でも目立ったものは漆工関連遺物で、漆塗弓矢や杓子をはじめとする漆塗りの製品と、漆の採集から使用に至る工程を示す部材や土器等であった。漆がすでに活用されていたことは驚くべきことだった。その後、東京都指定有形文化財(考古資料)「下宅部遺跡漆工関連出土品」、東京都史跡「下宅部遺跡」、日本の歴史公園百選に指定された。
②「正福寺地蔵堂」
 昭和4年国宝に指定。鎌倉円覚寺舎利殿と共に禅宗様の建築の代表的遺構で昭和9年の改修の際に発見された墨書銘により室町時代応永14年(1407)に建立されていることが判明した。室内には江戸時代の地蔵信仰により多くの地蔵菩薩が奉納されている。
③「徳蔵寺 元弘の板碑」
 元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの時、戦死した3人の武将、飽間斎藤盛貞等の供養碑は大正3年国宝に指定されたが、戦後の重要文化財の見直しで昭和25年重要文化財に見直された。「元弘の板碑」は将軍塚の100m先南に当初は立っていたという。文化13年(1816)以降に徳蔵寺に移設され、現在は「徳蔵寺板碑保存館」2階に安置されている。

3.三つの国の中心と結ぶ「いにしえの道」
①1300年前、奈良の都と結ぶ「東山道武蔵路」
 平成12年1月、本町2丁目大踏切近く土方歯科のビル建築工事の土地の発掘で幅12m(当時としてはかなり広い)の東山道武蔵路(官道)跡が発見されており、これまで発見された野口橋地点などで発見されたことから八国山を通過していることが考えられている。11世紀頃まで使われたが武蔵国が東山道から東海道に転属されてから利用者も少なくなり平安末期には廃道になった。
②「鎌倉街道」
 八国山裾に鎌倉街道が南北に通っていた。鎌倉幕府の御家人が有事の際、「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じる道として関東近郊の主要道として用いられた。道幅は馬に乗った武士がすれ違うくらいだったという。当時は「鎌倉往還」「鎌倉道」などと呼ばれ「鎌倉街道」と呼ばれるようになるのは江戸時代になってからである。
●久米川古戦場。
 八国山の標高89mの地点には新田義貞が鎌倉攻めに向かうとき指揮を執ったという将軍塚がある。地形的には八国山からの緩やかな斜面と北川と前川があり、近くには柳瀬川も流れていて、飲料水も手軽に入った。戦うには好都合の場所であったと思われる。八国山の名称はその頂きから八の国(上野・下野・常陸・阿波・相模・駿河・信濃・甲斐)の8山が見えたことから呼ばれ、遠望が利いた場所でもあった(現在樹木に覆われ眺望はない)。元弘3年(1333)新田義貞軍の鎌倉攻めの戦いの他、1335年「中先代の乱」、1352年「武蔵野合戦」、1417年「上杉禅秀の乱」など度々歴史に登場する古戦場である。
③「所沢街道」
 江戸時代に秩父から所沢を通り江戸へ石灰や御用炭、農産物を運んだ。路・道は政治・経済の中心地と地方を結び「人・モノ・情報・文化の交流に役立つ」。江戸時代の道は産物、人々が活発に行きかい始めたように思える。

4.水瓶「村山貯水池」・「山口貯水池」
 明治時代に入ってからの東京の人口増加により江戸時代の上水道では飲料水の供給が追い付かなくなった。さらに明治19年のコレラの発生で飲料水確保と共に水質管理の必要に迫られ、土地が良好で工事がしやすい所として大正から昭和の初めに狭山丘陵の谷が選定され、東京の人々の命を守る水道工事を行うことが決定された。狭山丘陵の谷(現柳瀬川、北川を堰き止め)を利用して村山貯水池・山口貯水池が作られた。その後、東京の人々の水瓶として人々の命を守ってきている。平成17年(2005)に耐震工事が行われた。湖の周囲の景観や、恵まれた豊かな自然は人々に親しまれ、人々の憩いの場となっている。

5.三本の鉄塔
 八国山には3系統の送電線が見える。西側から①東京電力東大和線27番鉄塔。②電源開発只見線500番鉄塔、超高圧(500kv)送電線。③JR東日本の中央専用送電線103番鉄塔。信濃川水系から取水し、福島県只見川『田子倉発電所』から送られている。大井先生曰く、福島県只見湖・田子倉ダムの水力発電を見学に行った時、ここから東村山迄500Kvが来るのかと感動したとのこと。

6.渋沢栄一と東村山
  A.全生病院、B.まりあ幼稚園、C.東京都養育院東村山分院、D.萩山実務学校:
 最後に今NHKで放映中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一の業績と東村山についてお話された。日本の資本主義の父であった渋沢栄一が福祉・教育にも力を注いだことを聞いていたが、東村山にかくも多くの施設が作られていたことには驚かされた。
 講演後5人もの方から質問があり、参加者には興味があった公講演内容だったかと、先生は喜ばれて終了した。時々ウオーキングを楽しんでいた八国山だったが、縄文時代から人が生活していて、古代、中世、近世、それぞれの時代を通じて数々の歴史があったことを知った。豊かな自然の中、歴史のロマンを味わいながらウオーキングを楽しむことができる八国山。八国山が東村山に存在していることの素晴らしさを感じ、ますます八国山も東村山も私の中で輝きを増してきた2時間だった。

参加者(敬称略)35名:
青木、青山、阿部(茂)、市川(暢)、大内、岡田、小野(浩)、勝方(信)、加藤、上町、 木野、紅松(容)、黒田夫妻、小菅、小森、坂本、崎山、高柳、滝川(桜)、滝来(洋)、當間、富澤、 野中、野村、藤井、町田(光)、三宅、宮元夫妻、森本、山本(岩)、吉田勝、 大井先生、鈴木芳子(郷土研究会会員)
                                                      (滝川 桜子 記)