演題 「戦後80年日米戦争を再検証する」
講師 佐藤 元英 氏(元中央大学政策文化総合研究所長 宮内庁主任研究官)
日時 9月20日(土) 10:00~12:00
会場 サンパルネ・コンベンションホール

今年は戦後80年です。国の内外で記念行事が執り行われています。それに伴いこの近代日本最大の出来事である日米戦争について再検証が行われつつあります。様々な言説が為される中、近代日本外交史の専門家である佐藤元英氏にご講演いただき、外交官であり、時の外務大臣であった東郷茂徳の記録を元に外交の観点から再検証していただきました。
しばしば日米開戦の戦線布告について、立場によって陰謀論めいた説が流布していますが、外交の観点からは当時の日本の外交の混乱した状況からは起こりえた事態であることが明らかになります。
今回の講演は戦後80年に加え、ウクライナ、ガザの紛争により、戦後もう戦争はできないと思われていた近来の常識が崩れつつある現状のためか、98名の多くの方々が参加し、特に稲門会の参加者が半数となりました。男性参加者が多かったことも本講演の特徴でした。
講演は2部に分かれ、前半は日米戦争の開戦の経緯、特定の人物の責任に帰される雑な開戦論が多い中、昭和天皇の意向による、様々の開戦回避交渉がされた結果の開戦であることを解説。後半は終戦の経緯。鈴木貫太郎内閣の成立から、繰り返し開催される御前会議、最高戦争指導会議の内容がポツダム宣言発出、原爆投下、ソ連参戦を背景に描かれていきました。ベースになっているのは東郷茂徳の手帳です。
日米戦争の開戦の経緯・終戦の経緯はしばしば天皇や陸海軍の動向、首相をはじめとした政治家の行動・意図によって語られますが、外交と戦争と軍事は一体であり、外交の破綻は戦争になる、戦争をやめるために外交がはじまるの考え方が提示され、外交官である外相の記録により様々な登場人物が前景として客観的にうかびあがってきます。
開戦において昭和天皇は開戦回避の意向を木戸内大臣を通じて明らかにしますが、その中で開戦回避の機会が2回あります。近衛:ローズヴェルト会談と近衛後任首相の東條内閣時代の乙案とアメリカ側の暫定協定案です。その際、あとわずかな妥協で回避も可能でした。決して不可避な開戦ではなかったのです。
また終戦もソ連を仲介した和平交渉を狙いつつも、戦争継続を望む陸軍、一方海軍大臣米内は終戦を望みます。その中で直接米国交渉を望む東郷と、ソ連との交渉を優先する後の外相重光葵と外務省も一枚岩ではありません。その際に重光葵は譲歩案として津軽海峡の開放まで考えていたそうです。スターリンがトルーマンに北海道の北半分を要求していたことは有名ですが、重光個人の考えにせよここまでとは驚かれます。
しばしば単純化されがちな歴史的な事件の背景も、複雑な経緯・一方向の直線的な動きのみでない重層的なメカニズムがあることを感じさせました。
現在起こっている紛争、不安定化する社会においてこのような視点があることは大変有意義だったのでないでしょうか。
来場者数 98名(市民等54名、会員・ご家族44名)
会員名(敬称略)青山、阿部茂、阿部(淳)、一色、伊藤、大内、岡田、尾島、小野(浩)、加藤、上町、鴨田、黒田夫妻、小林昇、小林(裕)、小森、崎山、佐久間、澤村、鈴川、副島、髙橋(正)、高林、高柳、滝川、田島、田邉、當間、當麻、戸田、富澤、中島、中村亨、中村(幸)、野中(元会員夫人)、藤井、町田、三宅、安田、山上、山本、吉澤、吉田勝
(伊藤 栄 記、中村 幸宏 写真)

