1日目 雨もなく、暑くも寒くもない旅日和、24名全員が集結後、8:00に東村山駅出発、途中池田さんより大昔紀伊半島から黒潮に乗り房総半島にたどり着いた人達が醤油・お酒を伝えた事、その為白浜等紀伊半島の地名が房総半島にも残っている事、メタンガスを活用した千葉の工場勤務された事などのお話があった。また歴史の語り部・長野さん86歳による故郷群馬の戦国時代史、平家の末裔千葉氏の千葉経営、足利氏から派遣された里見氏の南総支配等のお話をして頂いた。 10:00には東京湾アクアラインの海ほたるに至る。約1時間の休憩、スカイツリー、横浜ランドマークタワー、三浦半島、東京湾出口、新日鉄君津製鉄所、千葉袖ケ浦・姉ヶ崎東電発電所と360度ぐるりと見渡せた。アクアラインは今年で開通20年の由、すごい物を作ったものだと感心した。昼食は千葉県側の道の駅で大振りの刺身定食であった。きみつの濃溝の滝に寄り、亀岩の洞窟を散策後、目的地安房小湊に到着した。 今回の本命である鯛ノ浦遊覧船で特別天然記念物の鯛を見物に行った。1222年 日蓮聖人誕生時に鯛が群集浮上、銀鱗を踊らせ祝福したとの伝説、それ以来、同地では鯛は禁漁、大事に保護されてきた由。確かに餌を撒くとおびただしい数の鯛が群集浮上した。しかし頭部と眼は大きく、体型は流線型に近く、体色は青みを帯びていた。鯛のイメージである、小さな頭部、赤い大きな体型とは異なる。海に生きている鯛は斯くに如きかと驚愕した。 15:00にはお宿の吉夢にチェックイン。町自体 迫る山と海の狭い場所に位置し、ホテルも磯の上に建設された9階建て、Wi-Hi環境で全室オーシャンビューだった。18:00の夕食宴会までの間、9階の展望風呂、屋上10階の露天風呂に浸る。眼下に防波堤、釣り人、湾を形作る山々の新緑、海風を巧みに捕え飛び浮かび、ヒューホロと鳴く2匹のとび、その奥に太平洋が望まれた。まさに非日常の時間であった。 夕食宴会は大内会長の挨拶、青山さんの司会で旅行会の歴史の解説で始まった。料理は刺身の追加もあり、さすが海の幸満載であった。同室の舞台での2次会カラオケは名物となった池田さんの司会、小亀さんの十八番、「人生劇場」を皮切りにお得意の喉が続き、取りは阿部さんの「お久しぶりね」だった。締めは「東村山稲門会の歌」、「紺碧の空」、「早稲田の栄光」、「早稲田大学校歌」、慶応応援歌「若き血」であった。3次会は世話人の部屋で女性を除くほとんどが参加、ビール、お酒を堪能し、小池都政、慶応大学との比較等の議論百出であった。 第2日目 この日も旅日和。朝食後 9:30ホテルの目の前の誕生寺を参拝した。大きく高い屋根を持つ本堂はあまり見かけない建築様式であった。ここは日蓮聖人の誕生の地、誕生時に庭に淸水沸き、海には蓮の花が咲いたとの伝説だった。日蓮聖人の幼き頃の善行童子の銅像の前で記念撮影、写真屋曰く、どうせ買っては呉れないが万が一ほしい人がいたら写真を買って下さいとの甘言に乗せられ買った人がかなりおり、おまけの1枚を加藤さんが入手した。途中 カラオケ同好会世話人の南湖さんより前夜のカラオケ大会の優秀賞の発表があり、美女軍団が合唱、野村さんが参加した「月の砂漠」と決定した。 道の港でお土産の干物を購入後、野島崎灯台を散策した。灯台は房総半島の南端にあり、灯台の最上階からは太平洋が180度丸く眺望できた。1866年幕府と米国を含む4カ国と締結した江戸条約により明治2年12月18日に点灯、一方フランス語の銘板には1870年1月19日点灯とあった。この理由は明治政府が西暦を採用したのは明治10年だった為と説明文があった。14:00金谷フェリー近くのザ・フィッシュにて昼食、海ほたるにてトイレ休憩後18:00東村山駅に到着した。 天気に恵まれ、事故もなく、故障者も出ずよい旅行会であった。来年の参加も表明された方はドイツ語の得意な重原さんを始め数名おられた。パックではない手作りの旅行で、目的地・ホテルも自選、行程も当日変更可能とゆったりとした企画の賜物であった。企画、ホテル・バス会社の手配交渉を入院手術前まで尽力して頂いた吉田勝さん、事前にリハーサル訪問を行い、ビール飲みの為にトイレの場所とタイミングを調査頂いた加藤さん、会計とバスの中で絶え間ないビール、お酒、お摘まみの供給に配慮頂いた青山さん、吉田勝さんに代わり参加者募集に奔走して頂いた高橋正夫さん、この世話人団の皆様には感謝致します。 最後に成りますが、今回の旅行に密かに期待した個人的理由は下記でした。私は戦争疎開で千葉県成田にて小学校時代を過ごした。その修学旅行は安房小湊だった。安房小湊を訪れれば修学旅行の思い出が蘇るかもしれないと期待した。しかし60年の歳月は遠く蘇る事は何もなった。蘇ったのは当時1組60人クラス、クラスのマドンナの正子ちゃん、牛車、馬車が行き来した成田山新勝寺までの参道・商店街通り、口ずさんだ春日八郎の「お冨さん」、若山彰の「喜びも悲しみも幾年月」等々だった。これらの細切れた記憶が非連続的にフラシュバックしてきた。今回の旅行会は私にとって内なる過去へのセンチメンタルジャーニーでもあった。 (黒田祐司 記 赤荻洋一 写真)